【確認】1755年発行『英語辞典』初版を見てみよう
現在は“Coconut(ココナッツ)”として知られるココヤシの実。実はその昔、“Cocoanut(ココアナッツ)”というスペルが一般的で、どうやらそれは英国初の本格的な国語辞典として知られるサミュエル・ジョンソン博士編纂の“A Dictionary of the English Language(英語辞典)”の校正ミスがその発端だったとされていたという話を前回書いた。
ココナッツがココアナッツだった頃──その①
本当に単なる校正ミスだったのか。1755年に発行された『英語辞典』の初版を見てみよう。
“Cocoanut”という見出しはなく、あったのは“Cocoa”のみ。“Cocoa”には2つの語義に分かれ、ココナッツ(ココヤシ)としての意味は2番目のCocoa (2)の模様。
でも、ここで「ココア」になっていること自体、波乱の予感がするなー。
ちなみに1番目の語義であるCocoa(1)はCócoa>Cacao>Chocolatenutとなっており、“Chocolate“の見出しには“The nut of the cacao-tree.”と記載されている。「チョコレートナッツ」って、なんだかかわいい。
【専門家】フィリップ・ミラーの『園芸事典』
では、ココナッツを意味する『英語辞典』“Cocoa(2)“の記載をひとつずつ見てみよう。まず最初の引用文から。
A species of palm-tree, cultivated in most of the inhabited parts of the East and West Indies; but thought a native of the Maldives. It is one of the most useful trees to the inhabitants of America. The bark of the nut is made into cordage, and the shell into drinking bowls. The kernel of the nut affords them a wholesome food, and the milk contained in the shell a cooling liquor. The leaves of the trees are used for thatching their houses, and are also wrought into baskets, and most other things that are made of osiers in Europe. Miller.
冒頭にははっきり “A species of palm-tree (椰子の一種)”とある。
出典の“Miller”は、18世紀に活躍したイギリスの園芸家のフィリップ・ミラーらしい。『園芸事典』The Gardeners Dictionary)の著者である。さっそく中を見てみると、引用箇所発見。
“COCCUS”の見出しに、“The Cocoa-nut, or Coco-nut”と2種のスペルが記載されているものの、Cocoa-nutが先に記載されていること、また本文もCocoa-nutで統一されていることから、そちらの方がより一般的だったということがうかがえる。
と、まあ、ここまでは、ジョンソン博士は、専門家である園芸家大先生のミラー氏の記載に単に準じただけ、ともいえる。
【誤解】カカオの実がココナッツの木に?!
では『英語辞典』の“Cocoa(2)“、2番目の引用文はどうだろうか。
The cacao or chocolate nut is a fruit of an oblong figure, much resembling a large olive in size and shape. It is composed of a thin but hard and woody coat or skin, of a dark blackish colour; and of a dry kernel, filling up its whole cavity, fleshy, dry, firm, and fattish to the touch, of a dusky colour, an agreeable smell, and a pleasant and peculiar taste. It was uknown to us ‘till the discovery of America, where the natives not only drank the liquor made from the nuts, in the manner we do chocolate, but also used them as money. The tree is not very tall, but grows regularly, and is of a beautiful form, especially when loaded with its fruit. Its stem is of the thickness of a man’s leg, and but a few feet in height; its bark rough, and full of tubercles; and its leaves six or eight inches long, half as much in breadth, and pointed at the ends. The flowers stand on the branches, and even on the trunk of the tree, in clusters, each having its own pedicle, an inch and sometimes less in length: they are small, of a yellowish colour, and are succeeded by the fruit, which is large and oblong, resembling a cucumber, five, six, or eight inches in length, and three or four in thickness; and, when fully ripe, it is of a purple colour. Within the cavity of this fruit are lodged the cocoa nuts, usually about thirty in number. This tree flowers twice or three times in the year, and ripens as many series of fruits. Hill’s History of the Mat. Medica.
細長く、大きめのオリーブくらいのサイズと形、アメリカ大陸が発見されるまで未知の植物で、現地では、チョコレート(ココア)と同様の飲み物を作って飲み、通貨としても使用…..など、明らかにココナッツでなくカカオの説明になっている。
出典の“Hill’s History of the Mat. Medica“は、イギリスの園芸家John Hillが1751年に出版した”A History of the Materia Medica(薬物学の歴史)”のことだと思われる。 “Cacao, The Chocolate Nut.”という章を発見。
2番目の引用文は、この章の冒頭3段落をまとめたもののようだ。
でも、章のタイトルはCacao?“Cocoa”ではない。
注目したいのは、『薬物学の歴史』475ページのこの部分。
these together from a Cavity, within which are lodg’d the Cacao Nuts already described, usually about thirty in each Fruit.
『英語辞典』の該当部分(401ページ)と比べてみると….
Within the cavity of this fruit are lodged the cocoa nuts, usually about thirty in number.
どちらも「1個の果実の中に、30粒くらいのナッツが詰まっている」という説明だけれど、上はカカオナッツで、下はココアナッツになっている。
つまり、『英語辞典』では“cacao”をわざわざ“cocoa”にしているわけだ。でも2番目の引用文の最初に“The cacao or chocolate nut”とあるので、もしかしてこの後半の“cocoa nuts”こそ校正ミスで、そのせいで、この引用文は”Cocoa(2)”に間違って配置されてしまったというのだろうか。
それとも、ジョンソン博士は、Cacao=Cocoa、そしてCocoa nuts=Cacao Nutsと考えていて(Cocoa(2)の冒頭に「正しくはCacaoとすべき」と書いている)、その誤解から、異なる植物について書かれた2つの引用文を同じ語義で誤って使ってしまった、ということのなのだろうか。
ともかく、『英語辞典』の記述が原因で、(混乱した)多くの人は、ココナッツの木(ココヤシ)にカカオが実るものだと考えたらしい(というか、その逆だって考えられそうなこじれぶり)。
ちなみに、ジョン・ヒル氏は、『薬物学の歴史』の中でココナッツにもちらっと触れていて、“Coco Nuts“と記載している。つまりヒル氏は別々の植物だときちんと認識していたということ。
さらにいえば、ミラー氏もココナッツとカカオを混同していたわけでもない。『英語辞典』の“Chocolate”の見出しも、ミラー氏の『園芸辞典』の“Cacao“から引用されたもので、カカオについて正しく説明されている。
だけど、ミラー氏が、ココヤシをココアとしてしまっていたのは誤解の原因ではあるかも。
ココヤシもカカオも、イギリスには存在しない南国の植物なわけで、現物を確認できるわけではないし、ましてやジョンソン博士は冒険家でも植物学者でもない。
でも、ココア(2)の最後に引用した“Give me to drain the cocoa’s milky bowl”というジェームズ・トムソンの詩は、はっきりとココナッツを指しているから事態は複雑に。「ココア」の見出しには、ココナッツの記述→カカオの記述→ココナッツの詩が見事にごちゃまぜになり、収拾がつかない…..。
単なる校正ミス、誤植とはいえない、大きな誤解と知識不足があった気はするけれど、ジョンソン博士の名誉のためにつけ加えておくと、1735年(『英語辞典』刊行の20年前)に出版されたジョンソン博士による翻訳本“A voyage to Abyssinia “では、きちんと“coco tree“と記載されていることは各方面で指摘されている。たとえばこちら。
ただし、改訂版では、ご丁寧に『英語辞典』に合わせて“cocoa tree”に修正されてしまっている。ジョンソン博士自身も辞書の間違いにいつしか気がついたものの、存命中の改訂には間に合わなかったという話もあったりする(後述)。
【比較】カカオとココナッツ、違いは一目瞭然!
さて、改めて紹介するまでもないけれど、こちらがココナッツ。20世紀に入って出版されたものだけど、ばっちり“Cocoanut”と記載。
そしてこちらがカカオ。1つの実の中に「ナッツ」と当時呼ばれていた種子(カカオ豆)が30個くらいありそうなのがはっきりわかる。
勘違いが一般化してしまった「ココアナッツ」はその後どうなっていったのか。次の話は、スペルを巡って賛否両論あれこれうずまく2世紀分のあれこれ。
ココナッツがココアナッツだった頃──その③